卒論出した。

自分が書いたものを解説してみる。

かなり単純化すると(というか文学史的な話はよく知らないんだが)、近代文学っていうのは近世の戯作の流れを汲んでいるんだよね。谷崎潤一郎の『幼少時代』に出てくる師範学校出の教師が王陽明の詩を諳んじているように、漢学・漢詩、小説であればシナ文学が知識人のたしなみであり、一方、近代文学サブカルチャーであり、低俗なものだったわけ。事実、明治末年において師範学校・女学校で小説を読むことは禁じられている。

近代文学が世間様に認められるようになるのは、近代文学のなかでも高級なものと低級なもの―要するに純文学と大衆文学―の区別ができ、「文学」なるものが自立し、多くの人が手にするようになってからなわけ。まあそういうことを調べても面白いんだろうけd、国文学の人が住まうガチな領域のお話なので、私ごときが容喙できるテーマではない。

そこで、もともと低俗であった近代文学に、教育、教養的な価値がいかにして、どのように付与されていくのか?という若干ひねった問いを立てた上で、明治20年代から多くの人が文学全集を手にする円本ブームまでの言説の変化を追うという卒論を書いてみた。

「言説分析」という言葉が好きな人は多いんだけど、よく分析の対象となる商業雑誌に現れる論調なんかは、公と私的な言論のだいたい中間をなんとなくぼんやりと指し示しているのが関の山で、公共の場と、プライベートの場のそれぞれの実態はどうだかわかったもんじゃないと思う。そういったよくある批判を極力かわすために、言説の提示・分析はそこそこに、学校、図書館での規制、居住空間の変化、読書調査(読んでる雑誌とかな)なんかで脇を固めつつ論じてみたというわけ。

短期間でザーッと調べてガーッと書いたわりには(そのせいで文章がこなれておらず、データ羅列気味になってますけど)それなりのものが書けたのではないかと思うので、満足。


さて、荷造りをしますかねえ。