ブログ移転しました。

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人様にものを見せる仕事をしているのはしくれの人間として、
日々情報発信していくのも必要かな、と。

twitterとの共通IDで心機一転、色々書いていこうかなーと。

ついでに会社の好意で写真学校にも通わせてもらっているのを機に、
撮った写真も載せていきたいのです。
人に見てもらわないと写真、うまくならないしね。。。

よろしくよろしく。

赤プリとクリスマスの30年

 グランドプリンスホテル赤坂(旧名:赤坂プリンスホテル)が2011年3月に取り壊される。通称「赤プリ」と呼ばれ、映画『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』で1990年にタイムスリップした薬師丸ひろ子の宿泊先でもあった、バブルを象徴したあのホテルが、である。

 そして、今週はクリスマス。「赤プリといえば、クリスマス。クリスマスといえば赤プリ」なんて、セットで語られてきたこともある。そんな風に呼ばれた由縁を記しつつ、赤プリの最後を見届けたい。

 今でこそ恋人たちのイベントの感のあるクリスマスだけれど、1970年代までは圧倒的に家族向けのものだった。例えばその当時、若者向けの雑誌でクリスマスが特集として取り上げられることなどほとんどなかった。では、いつ恋人たちのものになったのかといえば、それは1983年12月の『an・an』からである。

 「クリスマス特集 今夜こそ彼の心をつかまえる!」と題されたその特集では、「クリスマスイブにシティホテルに泊まり、朝、ルームサービスで彼と朝食をとろう」と書かれていた。今までそんなことを書く雑誌、存在しなかったのである。そしてこの誌面で「お勧めのシティホテル」として真っ先に挙げられているのが、その年の3月にオープンしたばかりの赤坂プリンスホテルであった。

 そう、クリスマスが恋人たちのイベントに、そして赤プリが若者たちのあこがれの場となった瞬間である。

 というのはやや大げさだけど、歴史に切断面を見るならば、この83年の『an・an』なのだ。1970年代後半から男女の憩いの場としてシティホテルがちょっとしたブームになっていたこと、芸能人の披露宴の場としてしばしば利用されたことも赤プリの人気を後押ししただろう。

 こうして、さまざまなメディアで「恋人たちのクリスマス」が語られるようになっていく。「クリスマスイブに彼女と泊まって、翌日のチェックアウトのときに来年の予約もしておく」とか「イブの3カ月前には予約はいっぱい」なんて、ウソみたいなホントの話がバブル期の赤プリをにぎわした。

 こうしたクリスマス騒ぎは1990年をピークに徐々に落ち着きを見せ始める。それは、「恋人たちのクリスマス」「クリスマスイブの赤プリ」が1つのイベントとして定着したということ。だけど、定着したものだっていつかははがれ落ちる。開館から27年後、赤坂プリンスホテルの閉館が決定する。

 今年4月の会見において、ホテル側は老朽化を閉館理由に挙げている。しかし、この建築物が30年もたたずに老朽化とは考えにくい。都内への進出が著しい外資系ホテルとの価格競争に負けた、というのが正直なところだろう。ここ最近は資格試験の会場として利用されるなど、バブル期のにぎわいはどこへやら、景気の悪い話が続くばかりであった。

 毎年この季節、赤プリの壁面を彩るクリスマスツリーをかたどったイルミネーションも今月25日が最後。せっかくだから、閉館前に一度訪れてみてはいかがでしょうか。クリスマスイブに泊まるかどうかは、別としたって。

プログラマ荒俣宏の副業生活

副業の話をしよう。

「なぜ副業の話なのか?」ってそりゃあ、ブームだからだ。

昨年のとある調査によれば、副業経験があると答えた22〜39歳の正社員・契約社員は3割を超え、2007年からほぼ倍増(※)。周りにそんな人いないよ、と思うかもしれないけど、副業を禁止している会社も多いからあからさまにいわないだけで、ほら、あなたの同僚や隣の部下も、FXやWebライターで小銭を稼いでいるかもしれない。

IT業界における副業の成功者って誰だろうか。『ぼく、オタリーマン。』のよしたにさんはうらやましいよなあ、なんて思いつつ、さらにさかのぼると作家としてベストセラー『帝都物語』を世に出し、『トリビアの泉』のパネラーでもあった荒俣宏氏が思い浮かぶ。実は彼、プログラマとして9年間のサラリーマン生活を経験しているのだ。

大学時代から幻想文学の翻訳をおこなっていた荒俣青年であったが、幻想文学など印税も入らないマイナーな分野。大学卒業後、「どうせ一生イヤな仕事をして暮らすなら、せめて好きな魚の相手でもしよう」と日魯漁業(現・マルハニチロホールディングス)に入社したものの、魚とは無縁のコンピュータ室にプログラマとして配属されてしまう。

こうして「遺憾ながら」始まったサラリーマン生活であったが、翻訳の作業は変わらず取り組んだ。昼休みに原書を1ページ訳出することを課し、作業時間を捻出するために、睡眠時間を3時間しかとらない生活は、会社勤めの間ひたすら続けられたという。

また、原書、奇観本の代金を捻出することにも力は注がれた。「冠婚葬祭にも活用できるから」と黒いスーツを選び年中それを着続け、目が悪いために必要としたメガネは、買い換えたことでお古となった同僚のものをもらいうけた。こうして仕事以外すべてを幻想文学に捧げる生活は続き、プログラマという定職を持つ身でありながら、『幻想と怪奇』『世界幻想文学大系』『別世界通信』などを刊行していったのである。

こんな生活を送っていた荒俣先生のプライベートが気になるところだけど、80年代の『POPEYE』において「僕は24歳なんですけど彼女がいません、どうしたらいいんでしょうか?」という読者からの相談の回答が「彼女がいないのは当たり前です、そんなことは40歳になってから心配すればよろしい」だったことから、何かを察したいところである。

そして入社から9年間後、「将来もコンピュータ産業は花形だから再就職はいつでもできる。2、3年は翻訳に専念したい」と退社。その後の華々しい活躍は知っての通りだろう。

こんなご時世だから、格差と貧困のこの世を生き抜くための「稼ぐための副業」がクローズアップされがちだけど、お金にならない趣味としての副業に打ち込めるのも、生活を支える本業があればこそ。ここ最近あまり見かけない荒俣先生に語ってもらいたいのだ。昨今の副業ブーム、そして趣味としての副業について。

※ tp://bizmakoto.jp/makoto/articles/0905/01/news012.html

ちょっとしたところに載せてもらったコラム。字数制限が厳しいのに内容を無理に詰め込んだ感じはしますが、まあ。

あのころは遊園地があった


栃木県小山市にある郊外ショッピングセンター「おやまゆうえんハーヴェストウォーク」の一画には「フランス製2層式」のメリーゴーランドが置かれている。中の絵はフランスの職人によって描かれたもので、億単位の価値があるのだとか。


これは、そんな文化財級のメリーゴーランドが、郊外のショッピングセンターにたどり着くまでのエピソードである。時は昭和30年代、日本にも「和製ディズニーランドを」と考えた人物がいた。「昭和の興行師」と呼ばれた松尾國三は、米国のディズニーランドを模したテーマパーク「横浜ドリームランド」を1964年に8月に戸塚に開園する。このメリーゴーランドはもともと、同園内に置かれたものであった。


開園当初は人気を誇ったものの、交通の便の悪さ、83年の東京ディズニーランドTDL)オープン、松尾國三の死などにより赤字経営が続き、2002年2月に横浜ドリームランドは幕を閉じる。その際、経営の一端を担っていたダイエーが、同年リニューアルされた小山ゆうえんちへこのメリーゴーランドを移したのである(「小山ゆうえんち〜♪」のCM、懐かしいですね)。


しかし、メリーゴーランドの流転は終わらない。リニューアル後も小山ゆうえんちの経営は好転せず、2005年2月にヨークベニマル社にすべてを売却し、45年間の歴史に幕を閉じる。ほかの遊具が撤去されていく中、跡地に建てられた冒頭のショッピングセンター内にこのメリーゴーランドは残された。メリーゴーランドが持つ芸術的価値を踏まえての措置だったそうである。


「東京マリン」「向ヶ丘遊園」「奈良ドリームランド」……2000年代、多くの遊園地が閉園に追い込まれた。近年の都市型テーマパークの成功例といわれた「ナムコナンジャタウン」もアトラクションは2010年5月をもって営業を終了し、TDL東京ディズニーシーを除いた数多くの遊園地は、昭和の記憶とともに失われつつある。


なお、流転を重ねたこのフランス製2層式メリーゴーランドは、今も現役である。多少古ぼけてはいるものの、きちんと手入れがなされ大切にされているのだろう。上品なピンク色のフォルムが夜、美しく輝くのだ。


決して人気とはいえないけれど、ちらほらと子どもたちが乗り込んでいくメリーゴーランドに、あのころの夢のかけらを見た。

近況

町屋に引っ越しました。ぜひ遊びに来てください。ちょっと奮発してます。

で、転職するかもとか言ってましたが、しばらく今の会社で働く感じです。

6月に元上司から転職のお誘いいただいたものの、サービス企画の仕事は楽しいし、まだいいかなあと思ってしまったのですよねえ。

まあ、そんな感じで楽しくやっております。

ああでも相変わらず社内では浮いてるかなあ。高校生のころからずっとそんな感じだな、おれ。

洋モノはダメだ

米国で流行っているとあるサービスを昨年末に自分の会社が業務提携して提供することになったので、そのサービスの企画開発をここ1ヶ月ぐらいずーっとやってた。やったことといっても、ASPサービスをそのまま使っているので、日本用にローカライズしたり、マニュアル作ったり、イベントの企画立てたり、集客したり、まあそんな感じですが。

でも、洋モノはシステム的にはまるでダメなのですよねえ。ユーザビリティがイケてないのはもちろん、アメリカ人が持っていない文字コードを使うと、すぐに文字化け起こしやがる。それがすぐに修正できるのならいいんだが、修正を依頼しても、簡単なものはシンガポール(時差がほとんどない)のカスタマーセンターで対応で、複雑なものは米国本社とやり取りしなきゃいけない。
修正が遅れると、顧客への対応も遅れるわけで、提供するサービスの質がどう頑張ってもよくならない。アメーバの中の人がインタビューで「内部でエンジニアを抱えて開発しなければ、サービスの品質は上がらない」と答えているのが、なんとも腑に落ちた一ヶ月なのでした。
ttp://jibun.atmarkit.co.jp/ljibun01/rensai/leader02/05/01.html

そんなことばっかりやってたら、サービスオープンの前日になっても終わらず、当日の朝6時までぶっ続けで仕事することに。。。オープン後もなんだかんだで帰れず、結局その日も夜まで働いて、次の日ようやく午後に休めた。。。。

新しいサービスを提供することこれすなわち、新しい文化を作ることなので、今の仕事はとても満足しているのだけれど、これからもネット系の企画屋として食っていくつもりなら、自社内できちんとした技術者をかかえてる会社のほうがいいんだよなあ。。

1年目の最後にいろいろ考えさせられてしまいましたよ。

転職について

最近、面接に来た学生さんに1対1で会うことが多い。
みんな高学歴で優秀である。
今の会社の同僚を見るに優秀な学生に来てもらわないと正直しんどいので、おれはものすごい綺麗事を言うわけだが、本当に入社された日には、「てめえ、全然話と違うじゃねえか」と後ろから刺されるのではないか。
それを考えると怖い。ああ、夜も眠れない(嘘だけど)。
だれか1人でも実際に入ることになったら、彼らの入社日までには辞めてやるんだ。
元の上司のところに行くんだ。
僕の代わりに頑張ってください、って言い残して。